生きるのが下手すぎる
最初に白状しておきますが以下の文章はすべて稚拙な文章力で誤魔化したリベンジポルノみたいなものです。
馬鹿のマインドセットのひとつとして見て貰えたら嬉しいです。
私は自分の考えをアウトプットしないと先に進めないから、これは愚策だけど自己暗示と救済の儀式です。
まず、私は途方もなく嫌な人間と関わる事が人より多いと思う。
それはきっと私が嫌な人間で、経験を積む必要があるから生まれる必然だと思うのでそこにヘイトはない。人間関係はいつだって鏡だと感じている。
私が今まで出会った嫌な人間の系統は一貫して「自分と他者の切り分けができていない」人間だ。
具体例をあげると、自分の中の意見を人と擦り合わせることの出来ない人、他人の情緒への想像力が無い人、自衛があまりに攻撃的すぎる人 だ。
大概の大人はあまりにとんでもない人間(自分が関わるうえで害になる人間)への損切りが早い。でも私は20歳を超えても人へ期待をし、自分と同じ世界をみていると妄信し続ける阿呆なのでこの損切りが著しく下手くそだ。
そして、こんな文章読んでくれてるの私のことを少なからず知ってる人だと思うので自語ベースになるけど、めちゃくちゃ闘争本能で生きてて負けず嫌いで、人に攻撃するくせに自分が攻撃されると途端に被害者に徹する人間。それが私だと思う。
ただ、上にあげたものが欠点だとするなら、
自分がどれだけ傷つこうが自分を考え思考して、自分の非を洗い出して改善しようとするところは、きっと私の長所だ。
話が飛ぶけれど、私は本が好きだ。宗教が、哲学が好きだ。たぶん、人の悩みと社会性に介在した感情が好きだ。
この好き は、きっとココアが好きだとか、この絵が好き だとかいう単純な好意とは違うと思う。
私は本も宗教も哲学も、自分を守る繭だと思っている。宗教に関しては信仰心なんてまるでなくて、どんな宗教がどんな人を救ってきたのかの系譜にロマンを感じているだけだ。それでも、私を守る繭は知識で編まれていてそれはすごく心地がいい。単に学問としての人から評価される文学、宗教学、哲学と一線を画したものを私は感じ取りたいと思っている。
私は本が好きだ、としきりにアピールしているけれど、私が好きなのは近代文学、現代文学、自由詩だ。問題に対面した時に、自分を救ってくれる一篇を探してしまう、それこそ繭の形成をするために本を読む。
そして最近、先述の「自分と他者の切り分けができていない人間」と関わったとき、嫌という程救われたのは中島敦の山月記と遠藤周作の海と毒薬だ。
山月記は中国で詩人が思うように自分の詩を評価されず、下級役人になったものの幼い頃から天才と言われていた自分と現状の自分の違いを認められず、組織に馴染めず、挙句虎になってしまう という作品だ。
虎になる という表現は、自意識と自尊心を自制できなくなった みたいなものだと私は考えている。
虎になってしまう人間はあまりに多い、他人から見ればきっと私ももう虎なのだ。だけど、虎になってしまった人間の猛獣使いになれるのは虎自身に他ならない。
他者を虎だと思った時、自分が猛獣使いになりたい なってあげたいと思う心はきっと傲慢なのだ。
海と毒薬 は、「神なき日本人の罪意識」がテーマの太平洋戦争が舞台の作品だ。
戦時中、捕虜となった米兵に生体実験を繰り返す主人公の罪への意識と、良心の呵責、集団心理 みたいなものに主軸が置かれている。
戦時中という異常のなかで、自分の正義に葛藤する主人公が、いずれ社会に罪の所在を転嫁し、自己防衛をはかる様があまりに愚かだ。それでも痛いほどに共感した。人間の本質はきっとこういうもので、あまりに惨めで哀れなんだろうな と諦めさえつく。
この二作から私が感じ、学んだのは「他人の虎を飼い慣らそうとしないこと」「自分という海に垂らされた毒薬を正しい秤で裁くこと」だ。
理論でしかないけれど、かっこ悪いけど、自衛の方法として 社会一般の大人になるなら有用なんだ、きっと。
私は自分の問題解決をする能力を愛しているけれど、他人の感情、思想は変えられない。なら、自分が正当だと思えるシンクレティズムを取らなければいけないのだ。
以上が二十年稚拙に不器用に生きてきて、抜身では生きていけないから繭なんて思想の強そうな表現をとって自分を守る、未完成の私が感じたものです。
着々とつまらない大人になりつつあるけれど、私の苛烈さを好きな人間は私を諦めて、どうか受け止めてください。
学問は知識だけじゃない、自分の中に正誤の秤をきちんと据えて、その秤にすべてをかけて生きていけば、傷ついても傷つくだけじゃなく成長ができるはず。
そう信じるしか私に降りかかった火の粉を経験に昇華できない思想も、いつか変わるといいな
以上、自己の救済でした。